導かれた画家への道
西滝先生は、1972 年大阪生まれ。子どもの頃から絵が好きで描いていたのは世の画家と同様、
とおっしゃる西滝先生。意識的にか無意識的にか、この時すでにに画家になることを目指していたのかもしれません。描き続ける度に画力が上がっているの実感されていたということもまた、自信を深めた理由だったのでしょう。 この時分に影響を受けたのはアンドリュー・ワイエス。アメリカン・リアリズムを継承しながらも叙情的でヒューマニスティックな作風の国民的画家との出会いは、
とのこと。現在の西滝作品に通底する叙情的な作風には、美に開眼したときに見たワイエスの作品に連なるものがあると思うのは筆者だけではないでしょう。
高校は普通科に進学しながらも美術部に入部。50 号の大作を描きあげ、夏の展覧会に出品し奨励賞を受賞と画力はますます向上。大学はもちろん美大へ。地元、大阪芸術大学へ進学し、画家への道のりを着実に歩んでいきました。
しかしながら、
日本はもとより、世界的な美の潮流として、具象から抽象へと流れて、ふたたび具象に戻っていきましたが、西滝先生が大阪芸大時代の指導教員は、抽象表現主義の影響を
全身に浴びた世代だったことは想像に難くなく、抽象画を描くことが自然だったのでしょう。描きたいものを堂々と描けず正当な評価が得られないのはなんともやるせない。
それ故に、大学卒業後は一般企業への就職を選ばれたのは仕方のないことかもしれません。
ましてや時は1995 年、バブル崩壊後で就職難はもちろんのこと、新卒の画家としてやっていくことも不確かな時代。どちらを選ぶかは当時の西滝青年の選択肢は就職しかなかったのでしょう。
ところが、
中学生の頃から自主的に絵を描き続けてきた青年に、美大での理不尽な挫折を経験しても、サラリーマンとしての日々を過ごしながらも、美の神が見逃しませんでした。ゼミの友人たちとグループ展を開催し、「そのとき全く知らない方が自分の絵を見て『欲しい』と言って作品を購入してくれました」という奇跡は、画家にふたたび自信を取り戻させたことでしょう。
さらに、絵の講師の依頼と奇跡が続き、画家・西滝直人が立机するにいたりました(脱サラ直後は教室の仕事のほかにもカフェでアルバイトをするなどのご苦労があったそうです)。
師・池田清明先生との出会いと公募展への出品、個展開催と
西滝先生の作品発表の場として大きなもののひとつに公募美術団体の一水会がありますが、入会に際しては、師である池田清明先生(一水会運営委員、日展特別会員)との出会いによるところが大きいとのこと。
池田清明先生は大学の先輩でもあり、西滝先生が目指す、思い描いている画想にも近しい作品を発表されています。残念だったことは、西滝先生が在学されていた時分には、池田先生はまだ母校での指導をされていなかったこと(池田先生は2007年〜 10年に大阪芸術大学客員准教授、2016年〜 18年に同教授)。師との出会いは画家として立つ前のもっとも苦しかった頃でした。とはいえこうした回り道もまた、画家になるための階梯だったのかもしれません。
1996年に一水会に初出品初入選。2019年、第81回展で東京都知事賞を受賞されました(その間、一水会の趣旨に賛同する関西を中心とした作家の集まる研水会に入会。現在、准委員に。さらに2008年からは日展にも出品を開始)。
一水会への出品、都知事賞受賞までの間にも、もちろん、画家としての歩みの軌跡を着実に描かれていっていました。
2000 年には大丸心斎橋店での初個展、この年はさらに一枚の繪主催、第29回現代洋画精鋭選抜展(現・絵の現在選抜展)に入選。2010 年から断続的に受賞してきた、しんわ美術展で14年に金賞受賞と、周囲の評価を着実に伸ばしております。
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