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「一枚の繪」2010年2月号より、モノクロームの富士を描いた特集の取材にて |
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「一枚の繪」1995年11月号より、空から富士を取材 |
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「新たな境地を模索する」鎮西直秀
鎮西先生の2020年は、そのご活動の大半を、コロナ禍による影響を被ってしまいました。
「昨年、緊急事態宣言前は、3月の銀座(ギャラリー一枚の繪)の個展の準備でアトリエに籠って制作をしていました。銀座の個展の後は、是迄の現地で取材した風景をアトリエで完成させるというスタイルに新たな境地を模索する必要が有ると考えていて、試行錯誤を重ねている所です。しかし富士は描き続けるだろうと思っています」
新型コロナウイルス感染症の感染者が国内で確認されたのが昨年の1月。2月のおわりに政府から全国の小学校〜高校までが臨時休校を要請されるなど、ものものしい状況下で銀座での個展が開催されたものの、情勢を反映して来場者は激減。5月に愛媛・松山で開催予定だった個展が11月に延期されるなど、画家を取り巻く環境が一変してしまいました。それをチャンスと捉えたのかどうか、鎮西先生は「新たな境地を模索する必要が有る」と、スタイルの転換へ行動にうつされました。そんな中、「しかし富士は描き続けるだろう」とおっしゃるお心には、モチーフに対する畏敬の念と、このコロナ禍を焼き尽くすような力強い作品の象徴として、古来から、霊力を発揮してきた対象を表現しようという、祈りにも似た営為を感じずにはいられません。
芸大の卒業制作から現在まで描き続ける霊峰富士
1953年高知県生まれ。現役で東京藝術大学絵画科に入学(彼末宏教室)し、在学時に一枚の繪主催・現代洋画精鋭選抜展で最高賞の金賞を受賞。その後パリ・サンターヌ画廊で個展を開催し、美術界のトップランナーとして現在も作品を発表し続けている鎮西先生。モチーフとしての富士との格闘は学生の頃から始まっていました。
「初めて富士の絵を描いたのは芸大の卒業制作で、その頃心酔していた北斎から学んだ波と雲の海景に富士を遠景に描いた『波の音』という作品でした」(「一枚の繪」1995年11月号 〈特集 富士探訪 鎮西直秀—大空から描く富士〉より)
富士を描いてから20年後の95年、「一枚の繪」の特集でヘリコプターに乗って空からの富士を取材。雲海に浮かぶ霊峰の頂を『魁雲 富士図』と題して画布を染め上げました。
その15年後の2010年には、モノクロームによる山容の表現に挑み、成功を収めました。〈墨に五彩あり〉ということばありますが、単色の中にも、彩色の襞が、湿度を含んだ空気の粒子の階調を麗しく表現されていました。 |