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 お客様にはご迷惑をおかけいたしますが、何卒よろしくお願い申し上げます。


一枚の繪 絵画展
一枚の繪 絵画展
会期
2020年4月9日(木)〜15日(水)

会場
東武百貨店船橋店 5階 5番地 美術画廊

展覧会プレビュー 展覧会担当者に聞く 展覧会の見どころ
「—風景や生き物の命を追い求めて―
原 秀樹・尚子 二人展
 
 「展覧会のタイトルにあるように、僕は風景の、そこを超えたものの生命を、尚子は生き物の命の輝きを追い求めて描いています」(原秀樹:以下、秀樹)

 アプローチやモチーフこそ違えど、描こうとしているものが通じ合っている、絵画空間のやわらかな奥に、輝く生命を宿す作品を描く原秀樹先生と妻の尚子先生。共に東京藝術大学の油画科の小磯良平教室を出られたご夫妻の二人展が風光る4月、千葉県の東武百貨店船橋店で開催されます。その展覧会前の、桜の開花宣言が出る直前の、出品作を制作中のご多忙のなか、お二人にお話しをうかがいました。
 
—四季の彩りを描いて―百瀬太虚 油彩画展
原秀樹先生、尚子先生
藝大入学までのそれぞれの絵の道

 原秀樹先生は東京生まれ。こうして画家になろうとは思っていなかったという子供の頃、「勉強は全然しなかったんですが、理科だけはテストでほぼ満点を取れていたんです」というほどの理系少年が、中学3年生の時に学校で文集を編む際に公募のあった表紙や挿絵などの絵のコンペに応募すると、出した絵が全部、それも、表紙や裏表紙、挿絵と採用されるという快挙を成し遂げました。絵画に目覚めたのは、高校進学後に配られた教科書に掲載された一枚の絵に、美への啓示を受けたことから。

 「国語の教科書をめくった時に、愕然としたんですよ。レンブラントの絵があって、レンブラントにしてはめずらしい、窓辺で子供が佇む少女の絵で、それを見て、なんていうんでしょうか、今まで僕がやってきた(科学)のは、全部、論理、因果関係がきちんとできるっていう世界のことをやってきたんですが、それを超えた世界があるんだ、と思っちゃったんですね」(秀樹)

 それからの秀樹先生はまっすぐに絵の道へ。美大進学に反対だった父を説得して、浪人することが半ば当たり前のような東京藝術大学へ現役で合格。

 一方尚子先生は兵庫県に生まれ、秀樹先生とは真逆の、小さい頃から絵を描くことが大好きな少女で、紙という紙に描いていたそうです。「ずっと絵を描いてきた理由は、やっぱり人に対する興味がいちばん強かったからです」という尚子先生。よく描いたのは人に関係するもの(顔や手、足、靴など)で、小学校の時はクラスメートから絵を頼まれ、授業などで描いたものは、先生が市や県の公募展に出品したほど力のある作品を描いていました。その中の一枚は、県展(子供の部)で特選を受賞しました。

 「小学校3年生の時に、本物の絵描きだと思うような図画の先生がいたんです。宮田先生という方で、もうおじいさんのような歳でしたが、ある時授業で、今日はこんなお話をしましょうと。『子供を食べてしまう女の人がいて、神様が《お前が死ぬ前に治せるかもしれないから、私がお前に与えるものを大事に食べなさい》とざくろの実をあげました。ざくろの実は子供と同じ味がするからそれをひと粒ずつ食べれば、お前は子供を殺さなくて済むから、それを固く守りなさい』という話をした後に、黒板にチョークで、何も見ずにフリーハンドで描いた絵がものすごく素晴らしかったんです。こんな力を持った人がいるんだと思いながらも、この人も人間だからいつか私も絵描きになれるかもしれないと思ったのが、絵の道に進むきっかけだったのかもしれません」(原尚子:以下、尚子)

 高校生になってからは、地元の市以外の近隣の市展などにも出品。明石市の市展では市長賞を受賞。高校卒業後、浪人生活を経て藝大へ入学しました。
 
—四季の彩りを描いて―百瀬太虚 油彩画展
画面に集中して制作する原秀樹先生
時代、という抗えない波にもまれても

 お二人は学年こそ違えど、3、4年の専攻課程では同じ小磯良平教室に籍を置いていましたが、学生時代はいち面識もなかったそうです。秀樹先生が4年生の時に、尚子先生が入学されたのですが、尚子先生は、秀樹先生と会う前に、卒業制作展で見た、秀樹先生の作品に、先に会っていたそうです。

「私は、秀樹さんを(当時)知らなかったんですけど、その年の卒業制作展を観たなかで、ひとつだけ違う、ものすごくひとつだけ他の絵と違って際立っていました。まだ1年生で子供だったからいいかどうかは分からなかったんですが、先に絵に会っていました。それは今でも覚えていますね」(尚子)

その印象は強く、具体的な色や構図まで語ってくださり、尚子先生の心のなかでは今も色褪せずに飾られているかのうようでした。

 大学時代に在籍した年は異なりましたが、お二人から学生時代のことをおうかがいすると、尚子先生は生き生きとした具合に(基礎課程時代は当時の指導教官だった脇田和先生から、滅多にもらえない満点をもらったりしました)、秀樹先生は、画僧のような心持ちで、それぞれ自分自身の絵に向かって、絵とは何かを問いかけながら画布に自分の追い求めた表現を染め上げていた様子が感じられました。時代は抽象表現が美術界を席巻していた頃。秀樹先生は、「形式には関係ない、この絵に込められた精神なんだよ」という絵に対する姿勢は変わることなく、それは現在にまで貫かれています。授業にはほとんど出ず(課題も自宅などで制作して提出の時に大学に持参した)、図書室と、その上階にある模写室で、模写に励んだそうです。

「絵は楽しいこと」を子供に伝えて

 では、お二人が、いつ、どこで出会ったのか。それは、当時藝大絵画科の壁画専攻で指導をされていた矢橋六郎先生がご実家(岐阜県)の大理石会社(矢橋大理石商店、現矢橋大理石株式会社)で、秀樹先生は卒業して、そこで新幹線の駅舎などに大理石のモザイク壁画をつくっていたんです。矢橋先生が、藝大生をアルバイトに呼んだなかに、尚子先生がいらっしゃって(大学1年生の春休みの時)、岐阜でお会いしたのが最初だったそうです。
その後ご結婚されて東京で仕事を、生活をするという時、高度成長期の公団や団地が林立するという頃だったこともあり、子供の美術教室をはじめたそうです。生徒はたくさんきてくれたそうです(教え子のなかには藝大に進学した子もいたそうです)が、お二人の絵に込められた思いをここでも強く感じるのは、教室では、絵の教科書ではなく、親御さんに読んでもらうための本を一冊、ガリ版刷りの本を差し上げたこと。子供の絵を見るときに、いいところをたくさん見て、そしてよろこんであげてください、ほめてあげてくださいと。そのよろこびで子供は本当に楽しい世界をつくることができるんです、ということを書いたそうです。今でもその本を持ってくださっている方がいらっしゃるそうですが、尚子先生曰く「秀樹さんの教室は子供に一回も絵の描き方を教えたことがないんです。子供には自由に絵を描いてもらって、心の持ち方とか(絵を描いていて)楽しいこととか、そういうことを話していましたね」と、絵を見る、描くことの最初にして最高のものを素直に教えていたことがよく分かります。
そうして、美術教室を続けながら、まず秀樹先生が、ついで尚子先生も絵画展で絵が売れ始め、画家を生業とするようになっていきました。

 
—四季の彩りを描いて―百瀬太虚 油彩画展
立って制作するという原尚子先生
風景や生き物の命を追い求めて

 「結局、レンブラントを見たショックが僕を絵描きにして、それから、この世界を超えた感動、そういうものを描きたいと思って描き続けています。
 現在のような絵になったのは、25年ほど前に催された岡山百景展に出品した時からでしょうか。出品作を描くために岡山、瀬戸内あたりを巡って絵を描いていました。牛窓(岡山県瀬戸内市)でホテルの最上階の部屋に泊まったのですが、翌朝起きて窓を開けたら、太陽がちょうど上がってくるところで、ちょっとしてから海一面が光っていったんです。びっくりしちゃって、『あ、これだ!』と思ってね。彼方につながる光景(この世界を超えた感動)が。あれはすごかったですね」(秀樹)

 「私は、ほとんど子供を中心に描いたものを展覧会に出品していました。
テーマは子供が主なのですが、個展をするにあたって、子供だけではなくて、他のモチーフを描けるなら描いた方が良いと画商さんに勧められて、花や静物を描くようになって少しずつモチーフが増えていきました。静物画は、ヨーロッパでも生きているものを描く際には、花だったら手折ったものや小動物などは死んだものなどを画架の前に置いて、「もの」に変えて、屍を描くのが静物(ヴァニタス画)、ということなんですが、私は、切ってきたぶどうでも桃でも、そのものの持っている、見た時に感じる生命力、命の輝きというか命そのもの、そういうものをできるだけ自分の中で密に濃度を高くして、そして命の輝きを描きたいと思っています。それは子供だって、お花だって同じなんですね。お花を描いたら香りがするようなお花を描きたいし、子供を描いたら笑い声が聞こえる子供を描きたいというのをずっと思って描いてきています。赤ちゃんからおじいさんまで、世代を超えてみんなに伝わるような表現がしたいんですね。そういう絵描きになりたいと思っています」(尚子)

 お二人の今を、また、絵を通して表現したいものをおうかがいすると、展覧会のサブタイトルの「風景や生き物の命を追い求めて」という、最初におっしゃったところに戻ってきました。モチーフや画風の変遷はあれど、変わらぬ永遠のテーマを描き続けるお二人の現在が、東武船橋店美術画廊で輝きを放って迎えてくれます。東京オリンピックが延期になるなど明るい話題の少ない令和2年の晩春に、希望の光を会場で私たちは見ることでしょう。

 「僕たちは(画風や対象は)全く違うんだけれど、似ているところがある。僕は『この世を越えたもの』、尚子さんは『この世のなかにあるものそのものが内包している命』を描く。それぞれの輝きを描く。その点では同じなんですね。求めるものとしては輝く命を描く、表面の奥、表面の向こうにある、という意味では同じだと思うんですね。だから、似たもの夫婦ともいえるし、正反対ともいえる」(秀樹)

 お二人の作品の調和が生み出す生命の輝きのリズムを、会場で感じてみてください。



 

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