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百瀬太虚先生 |
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『滝桜(福島三春町)』油彩F40号 |
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『松島(西行戻しの松公園)』油彩F6号 |
各地の桜、
それぞれにある物語までも表現する
「印象に残る桜は三春の滝桜(福島県三春町)。何度見ても飽きない、どこから見ても絵になる桜だと思います。宮城の印象に残る桜ですと、西行戻しの松公園の桜(宮城県松島町)。ソメイヨシノ越しの松島の風景は西行も芭蕉も見ることができなかった絶景だと思います。桜を描くときに気をつけていることは、桜が桜らしく見えること。桜はそれぞれに物語があるのでそれを感じられるように、絵としてどうかよりもその桜として描きたい。その表情を変えないで桜をより美しく見せるための切り取り方に一番気を遣っています」
百瀬先生は1960年長野県生まれ。あの、対象をつぶさに見つめたかのような細密な表現は、小さい頃から詳細に手数をかけた絵を描いていたのではないかと思いきや、「一年保育の保育園の最初のお絵描きの時間は白紙で何も描けなかった」そうです。子どもの頃は自然を友だちに、昆虫採集や釣りをするなど、絵筆ではなく捕虫網や釣り竿を持っていたそうです。
「小学校4年の夏休み、日本海に沈む夕日を見たことは山国育ちの自分にとってひとつの事件だった。後日、その印象を絵に描くほどの衝撃だった。同じ頃、図工の授業で中庭の花壇を見ながら写実的に描いた絵を先生に褒められたことがありました。特に取り柄のない自分には、絵の才能も飛び抜けてあるとも思えないのですが、画家になろうと思った時の根拠のない自信と拠り所になっています。この頃描いた絵の好みが、今描いている絵の、印象を元に対象の本質そのものを描こうとする絵と、実景の色彩を忠実に描きたいと思う絵との両方の指向を表していると思います」
と、画家への萌芽を思わせるできごとともいえる、長じて「拠り所」となったエピソードをお話しくださいました。その頃は、人生を絵画にかけるという思いを抱くにはまだまだ先のことでした。
中学高校は、美術部で研鑽を積むといったこともなく大学へ進学した百瀬先生。一転。「美術研究会というサークルに所属して、年に数回近くの絵の研究所でクロッキーをやったり、作品は下宿で描いた油彩画を大学の文化祭などで年に2回くらい発表していましたが、絵は趣味でした」。
この、大学時代から卒業後に学んだこと―大学(民俗学者・折口信夫を輩出した國學院大學)では民俗学が盛んだったことがあって勉強したり、風水や陰陽五行思想などに興味を持った―が、画家としてスタートをきった頃の作品に見え隠れしているそうです。
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